5章 医療事故への対処の歴史的な転換
5-1 ダナファーバーの事故の概要
5-2 米医療施設評価合同委員会(JCAHO)の根本原因分析(RCA)
5-3 過誤を罰しない
この提言では、単なる死因分析を越えて事故が生じる背景にある根本事故原因を究明し、医療安全の向上に焦点を合わせた総合施策に着手することを提案している。そこで、アメリカにおいて、医療事故への対処法の歴史的な転換点となったダナファーバー事件の原因分析と対応について紹介し、参考に供したい。 医療過誤の責任問題を、医療者個人の過失責任追及から医療安全システムの構築へと大きく舵を切るきっかけとなった米・ダナファーバーがん研究所病院事故から、すでに10年以上の歳月が経過した。ダナファーバーが事故の原因調査にあたって示したリーダーシップは、あらゆる医療機関や患者にとって医療安全の向上と事故防止の規範たり得るものである。このリーダーシップを支えたのは「何が患者のために必要か、そのために自分たちは何ができるか」というプロフェッションとしてのひたむきな想いである。 わが国でも、抗がん剤の過剰投与死亡事故は、かなり頻繁に起こっており、刑事事件となった事例だけでも、この5年間に4例ある。うち2例(平成11年12月の癌研究会附属病院事故、平成12年5月の福井県立病院事故)は、ダナファーバー事件と同様にヒューマンエラーによる過量投与事故である(他の2例は無謀な治療によるもの)。この2例とも医師(福井県立病院事件は医師と薬剤師)の業務上過失致死として、略式命令で罰金刑を受けている。仮にダナファーバーと同じ事故がいまわが国で起こったとするなら、研修医と指導医の過失が追及され、罰金刑が下されるのである。この10年の間に、米国の医療安全文化は大きく変わったが、わが国では医療安全を蔑ろにして、今なお個人の過失責任が追及されているに過ぎない。医療事故原因究明の医療安全委員会構想は、わが国の医療事故への対処の歴史的転換点に位置付けられなければならないのである。 ▲TOP
5-1 ダナファーバーの事故の概要
1994年11月乳がん患者2名に予定の4倍量のエンドキサン(抗がん剤の1種)が投与された。エンドキサン4g/m2/4日間(6,250mg/総量、1,630mg/日)の予定だったが、実際には2人の患者にエンドキサン4g/m2/日を4日間連日(25,250mg/総量、6,250mg/日)にわたって投与され、そのうちの1人は3週間後に心不全のため死亡した。この事故は以下のようなエラーの連鎖によって発生した。 【1】治験プロトコールの治療薬の指示が曖昧な記述であった。
「シクロホスファミド4g/m2を4日間にわたって投与(“cyclophosphamide dose 4 grams/square
meter over 4 days”)」
【2】他の上級医がこのオーダーの誤りに気づかずに確認のサインを行った。
【3】薬剤師も予定用量が多いことに気づかず
【4】看護師も薬剤用量が多いことに気づかず
【5】複数の看護師も薬剤用量が多いことに気づかずオーダー通り投与を行った。
【6】検査室では血液検査が行われ異常値を示していたにもかかわらずデータは臨床試験保存カルテ用にのみ記載され、患者カルテには記載されなかった。
【7】病棟にはプロトコールの原本はなく、病棟看護師は気づきようもなかった。
【8】死亡から3ヵ月後の翌年2月、臨床試験データの整理を担当していた職員が過剰投与に気づいた。
【9】過剰投与が認識されるまで診療に関わった約25名の職員の誰一人として異常に気づかなかった
内部調査委員会が発足、詳細な関連資料の収集と分析、関係者へのインタビューが始まった。所長、臨床部長に事故の概要が伝えられ、翌日家族に医療過誤の事実が伝えられた。
▲TOP
5-2 米医療施設評価合同委員会(JCAHO)の根本原因分析(RCA)JCAHOは、1995年に「警鐘的事例」の制度を設け、医療過誤の情報収集・防止の取り組みを始めた。ダナファーバーの事例はJCAHOおよびこの制度の存在意義を考える上で教訓的である。警鐘的事例とは「死亡あるいは重大な身体的・機能的傷害を、予期し得ない形で生じた(あるいは生じ得た)事例」とされ、医療施設は、施設内で生じた警鐘的事例を見落とすことがないよう、また、生じた警鐘的事例のすべてに対して「適切な」対応をするよう期待されている。 警鐘的事例制度の根幹をなしているのが過誤を生じた原因に関する「根本原因分析(root cause analysis)」である。JCAHOは、過誤が生じる背景には必ず組織あるいは運営上の体系的欠陥があるという前提に基づき、警鐘的事例が生じた場合、その根本原因分析を行なうことを医療施設に義務づけている。根本原因分析の対極にある対応は、誤りが起こった原因を当事者の不注意など「個人のレベル」に求める立場であるが、この場合に取られる過誤防止対策は、当事者の処罰と「これからは一層気をつけましょう」というかけ声だけに終わることが多い。 根本原因分析では、当事者の「うっかりミス」が直近の要因として同定された場合、「当事者がうっかりミスをしたのはなぜか」と「うっかりミス」の原因を突き止めることが要求される。根本原因分析で問題とされるのは「Who?(誰が間違いをおかしたか)」ではなく、「Why?(なぜ間違いが起きたか)」だからである。さらに、根本原因分析を実施することの目的は当事者の処罰ではなく類似事例の再発防止にあるので、「うっかりミスが気づかれなかったのはなぜか」と再発防止を念頭に置いてシステム上の問題点を同定するよう促される。こうした背景に基づいて進められたこの事例の原因分析を以下に紹介する。 1)ダナファーバーの過誤の背景小児のがん治療の専門病院として始まったダナファーバーがん研究所は化学療法の進歩、骨髄移植の発達などとともに規模が拡大、成人のがん治療も手がけ、1995年の時点で57床、2,088件の入院、55,427件の外来患者の診療実績があり、30%の患者が新薬の治験に参加していた。予算を、1995年時点で160億ドル以上の多額の研究資金をNCIやNIH、企業から集め、半分を研究にあてている。 治験プロトコールは分厚く詳述された書類で作成されており、治験の目的・合理性、用量(1回量・頻度・投与方法、補正式)、適応疾患と状態、ランダム化の方法、エンドポイント、患者の評価方法などが記されている。1995年時点で90〜150の治験プロトコールが動いていた。プロトコールは所定の場所に保存され、修正があった場合は最新版に置き換えられた。プロトコールのコピーは患者カルテに挟み込まれた。 看護師は患者の同意の有無、血液データなどを確認、投与量の計算を行い、診察をして当日の状態を評価し担当医の確認を経て治療を行う。レジデントも用量、処方オーダー確認、検査結果の確認を行い、化学療法以外の薬剤の処方も行う。薬剤部は処方オーダーと検査結果の確認を行い、調剤と投与時間をプロトコールに従い決める。患者ごとに薬剤処方シートが作成されており、7日毎に医師によって書き換えられA看護師、薬剤師のチェックも受けている。 開始する際には患者氏名、薬剤バックの氏名が一致することを腕のバーコードによって照合、もとの処方オーダーを確認する。引き継ぎの看護師は氏名と薬剤名、投与量、同意書を確認するが、オリジナルの処方オーダーは確認しない。 看護部と薬剤部が独立しており、それぞれ質改善プログラムが独自に運営されている。医師や看護師は同じフロアで業務を行っているが、医師と看護師の間で公式な連絡、連携プログラムはなかった。また、医師、看護師、薬剤師の間で薬剤の処方について考え方の違いがあることがあった。例えば医師は1回量を1コース(例えば3日間)の治療薬総量と考えるが、薬剤師は1日量と考えるほか、紛らわしい略語、読み取りにくい手書きオーダーも連携の障害であった。 質改善プログラム(QA)はすでに州当局やJCAHOによって義務づけられていた。すべてのオカランス(治療に伴う死亡、再入院、有害事象など)とインシデンス(転倒、処方間違いなど)はQAに報告されており、すべての死亡(多くは予測できた死亡)と有害事象はQAミーティングで報告された(指導医、担当医が出席)。四半期に一度州医事当局の定める委員会も開かれていた。QA委員会は主なオカランスとインシデンス、苦情のまとめなどを示した報告書を半期あるいは年に1回作成していた。 1995年以前には重篤な有害事象を起こすような危険な兆候はほとんど認められなかった。「ベッドサイドでの医師看護師の連携はうまくなされており、決まった書式や連携の仕組みがなくても薬剤部とも情報は共有できていた。スタッフが十分注意しており、事故防止に取り組んでいる」と考えられていた。 2)事故発生後のダナファーバーの対応しかしながら、こうした二重三重の事故防止策の網の目をかいくぐるように事故は発生した。過剰投与に関わった2人の医師と3人の薬剤師は業務から外され、院内の原因調査委員会が発足、調査に公平を期すため外部のがんセンター部長を長として委員会を編成、毎週のように会議が開かれた。過量投与に至った病院の管理システムと情報伝達システムの問題点の洗い出しが徹底的に行われた。ハーバード大学の公衆衛生学講座、州公衆衛生局、JCAHOの抜き打ち監査が立て続けに行われ、施設は観察処分下に置かれた。 臨床部長は辞任し、小児科がん治療部長であるステファン・サランに交代した。サラン教授は二度とこのような悲劇が起こらないような新しいシステムの構築を推し進めた。 「この事故は間違った医師本人の問題というよりは、これを防ぐリスク管理システム構築を怠った上部の責任である」 という判断によって、医師だけでなく、同時におもな幹部職員と薬剤部部長が解任された。
この事故が発表されて以降メディアに継続的に取り上げられ、1面記事での掲載は3年間で28回にものぼった。院内では、上層部の辞職、組織の再構築、メディアによる連日の非難もあり、職員に動揺と落胆が広がっていた。一方、オープンで、親しみをもち、博愛の精神とともにあれというダナファーバーの理念は市民・メディアに対してだけでなく、内部の職員に対しても常に貫かれていた。こうした中で事故の背景となった要因の分析と対応策が強力に推し進められた。
【1】170万ドルを投資し薬剤オーダーのコンピュータシステムを導入、確認にあたって複数のチェックを促すチームアプローチを強化する。これまで口頭指示や手書き指示に頼っていたステップが明確になり、業務プロセスの共通化、最適化がなされた。過量投与やプロトコール違反の際には警告が発せられる。
こうしたシステムは抗がん剤にとどまらず、通常の処方でも応用され、ダナファーバーをはじめとするハーバード大学関連病院だけでなく多くの医療施設に導入された。
【2】ダブルチェック、トリプルチェックを確実に実行
患者データの入力、薬剤の確認、患者の確認をダブルチェックで実行、治験の患者に対してはトリプルチェックを必須とした。
【3】安全文化へのシフト
医療安全向上のために医師、看護師、薬剤師の連携を深め、チームアプローチの機会を増やした。リスク管理の専門家を呼んで調査講演を依頼したり、スタッフに対してシステム改善に関するシンポジウムへの参加を促した。プロトコールに対して疑問がある場合には担当医に確認することを容易にした。問い合わせを行うことによってリスクの芽を早めに摘み取ることが可能になった。患者も安全に対する意識が向上、自分の名前をフルネームで話すようになった。
【4】過誤報告によって罰しないシステムを構築
過量投与の事故ではレジデントの医師、指導医が解雇され、15名の看護師が当局によって懲戒処分を受けた。そこでこの過誤事件以降、病院は不必要に解雇しないようなシステムを構築するようにした(故意の場合や明らかに患者に危害を加えた場合を除く)。
個人の責任ヌ及から解放することによってシステムの瑕疵についての議論が可能になる。一方で個人の注意義務、説明責任や責任意識を減じるようなことがあってはならない。過誤報告を促すことによって数多くのニアミス例が報告され、事故を防ぐことができた。手技に際して起こった事故をもとにより安全なガイドラインの策定に役立ち、報告した研修医や指導医が積極的に関与するようになった。患者に危害がおよぶ医療事故は、人間の誤りを起こしやすい性質(可謬性
fallibility)に対して病院が十分な防止策を講じていないことを示す警告であるととらえ、病院の調査委員会に対して十分な権限と資金を投じることで、安全な医療の実現を目指した。
3)医療安全意識の広がりこの事故により死亡した患者は、地元ボストングローブ紙の医療担当のジャーナリストであった。そのため医療過誤に対してより注目を集めることになった。この事故報道は連日メディアに取り上げられ、市民および医療関係者の関心を引いた。 ダナファーバー研究所病院では医療安全管理に関する大掛かりな見直しが行われ、これを受けて、アメリカ全体の病院管理基準も大きく変更された。 全米の外来化学療法における処方ミスが3%にのぼり(9ヵ月で306/10112件)、このうち多くが患者に傷害を与える可能性のあるものであるという論文がハーバード大学関連病院を中心に報告された。およそ半分は看護師や薬剤師が確認し、投与前に修正することができた。こうした報告はエラーの全てを報告する制度があって初めて可能になったものである。 また、事故防止対策の費用対効果を評価することも可能になった。例えばブリガムウィメンズ病院でのコンピュータシステム導入コストは197万ドル、維持に年間50万ドル必要であるが、事故防止によって年間500-1000万ドルのコスト削減効果があるという試算がされている。処方ミスは約1/3に減少した。医療機器メーカー、製薬会社など関連企業も事故防止の視点から様々な対策(薬剤に一日上限量を明示する、など)を行った。 こうして4年後(2000年)、Institute of Medicineが「To Err is Human(邦訳『人は誰でも間違える』)をまとめ、一連の考え方は全米の常識になったのである。 ▲TOP
5-3 過誤を罰しない1)入口から出口まで一貫した制度設計
米・ダナファーバー研究所病院での抗がん剤過剰投与事故からその後全米に広がる医療安全文化の共有へとつながる原因調査分析、再発防止への道筋について取り上げた。医療事故をゼロにすることはできないが、起こる可能性をできる限り小さくすることができる。そのためには医療事故の発生を受けて動き出す「入り口(=医療事故の報告および収集のための制度)」のみならず原因究明と再発防止につながる「出口」に関わる制度設計を行うことが不可欠である。
安全な医療を作り出すことは永遠に終わりのない課題であり、治療と有害事象とが表裏の関係であることは、医療者と患者が共有していかなければならない。誤りは常に起こり得る、このことを常に認識し、傷害を最小限にとどめ、どんな間違いも患者に示していくことが医療者の責務である。医療提供者として誤ちから学び、得た知見を伝えていく責任がある。
2)過誤報告
個人の故意や不正が原因となって起こっている医療事故は、ごく少数である。医療事故の背景には多くの場合、何らかの医療システムの瑕疵がある。それを解明せずに、医療従事者個人の責任を追及することに終始するのであれば、医療従事者は過誤による懲罰をおそれ、過誤報告を隠す傾向を生む。事故の再発防止や原因究明のために過誤報告ほど貴重な資産はないが、入口から出口までの総合的な制度設計をしなければ、私たちはその資産を手に入れることはできない。医師や看護師が過誤の申告によって訴追され免許を剥奪される可能性がある場合、過誤の議論や報告そのものが妨げられる原因になる。アメリカでは「過誤を罰しない」という決定ののち、過誤報告が10〜20倍に激増した。
参考文献
1)Accelerating change today for Americaユs health: Reducing medical errors
and improving patient safety. The national coalition on health care, The institute
for healthcare improvement 2000.
2)李啓充: アメリカ医療の光と影医療過誤防止事始め. 週刊医学界新聞, 第2372号2000年1月
3)Gandhi TK et al: Medication safety in the ambulatory chemotherapy setting.
Cancer 2005: 104, 2477-2483
4)Allen Scott : With work, Dana-Farber learns from ユ94 mistakes. Boston Globe,
Nov. 30 2004
5)Conway JB and Weingart SN: Organizational change in the face of highly public
errors. Dana-Farber Institute experience. Agency for Healthcare Research and
Quality, Morbidity and Mortality rounds on the web. May 2005
6)Nielsen RP and Dufresne R: Can ethical organizational character be stimulated
and enabled?: メUpbuildingモ dialog as crisis management method. 57: 311-326,
Journal of Business Ethics 2005
7)李啓充: 市場原理に揺れるアメリカの医療. 医学書院, 1998
▲TOP
|