3章 評価判定から再発防止へ
3-1 医療安全向上のための分析評価及び不服申立
3-2 プロフェッショナルオートノミーによる再発防止
3-3 医療安全の評価と行政処分
3-4 行政処分適正化のための改革
3-5 行政処分としての診療報酬制度の利用についての試案
3-1 医療安全向上のための分析評価及び不服申立1)原因分析調査委員の分析評価原因分析調査委員が、正確な調査評価を確保するために、届出病院に対しカルテ等の関連資料の提出を義務付ける。また、同委員において、解剖が必要とする場合には、遺族にその意義を十分理解してもらうよう、調整看護師等から説明をし、同意を得た上で行う。しかし、家族の同意が得られない場合には、医療安全委員会の職権で解剖を施行できることとする。解剖において、生前に行われた手術手技について、主治医の状況説明が必要であると原因分析調査委員が判断した場合には、遺族の了解のもとに主治医の立会いを認める。また、遺族が希望すれば、自身またはその代理人を解剖に立ち会わせることができる。 調査は、事故の根本原因を分析することが目的であるから、ヒヤリングやRCAなどの方法を用いて行う。地域によって評価に差が出ないように、分析方法についての研鑽も必要である。同委員は、調査結果を事故評価としてまとめる。 事故調査結果報告書は、 【1】事故における事実関係背景の確定 【2】再発防止の提言 【3】医師の教育・処分、医療機関に対する対応(処分を含む)
等からなる。 ▲TOP
2)医師または医療機関の調査協力正確な事故の原因分析には、医師や医療機関の調査協力を欠かすことはできない。 そこで、医療安全委員会には、調査権限を定めるとともに、医師や医療機関にも調査協力義務を課すべきである。それにもかかわらず、刑事類型IIの証拠隠滅やカルテ改竄にまでは至らないが、医師が黙秘したりなどして調査に協力しない場合には、事故調査結果報告書にその旨を記載する。そして、医師または医療機関の自律的処分や行政処分においてはその点についても斟酌していく。
3)事故調査結果報告書に対する不服申立
原因分析調査委員は、事故の原因分析調査の結果をまとめた事故調査結果報告書を、遺族と医療機関に対して、両者同席の下に説明報告する。 説明報告に当たっては、医療的な専門事項も多いことから、調整員(看護師)を同席させて、遺族が十分に理解できるように配慮する。 事故調査結果報告書に対し、遺族もまたは医療機関において不服がある場合には、不服の根拠及びそれを裏付ける資料を添付して一定期間内に中央医療安全委員会に不服の申立をする。 中央医療安全委員会では、不服に理由があると認めるときは、調査の再開を地方医療安全委員会に命ずる。
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3-2 プロフェッショナルオートノミーによる再発防止(図7)
1)地方医療安全委員会の処分と再教育プログラムの位置付け
医療事故の大きな原因が、事故に直接かかわった医師(または医療従事者)の医療倫理的問題あるいは医学判断や医療技術的問題にあると判断された場合、地方医療安全委員会は、その医師には教育的処分を課する。医師およびコメディカルスタッフの再教育については、「行政処分を受けた医師に対する再教育に関する検討会」(以下、再教育検討会、座長:北島
政樹慶應義塾大学医学部長)および「行政処分を受けた保健師・助産師・看護師に対する再教育に関する検討会」(座長:井部俊子聖路加看護大学長)で具体的な方策が検討されてきた。しかし、これは、医療事故の原因を究明することなく、原因を個人の過失にのみ求める風土のなかで、刑事処分を優先し、それに準じて行政処分を科し、その後の現場復帰を目的にした仕組みになっており、医療安全の向上という観点からは本末転倒の策と言わざるを得ない。
従来、刑事処分が確定するまで行政処分も行われず、これまでは再教育システムもなかったため、医師個人に原因があるときでも事故後長い間何らの対策も取られないままでいた。そこで、事故の根本原因の究明によって医療担当者個人に大きな原因があると判断される場合には、まず、第一に迅速かつ弾力的にプロフェッショナルオートノミーによる再教育プログラムを始め、成果が得られない場合に行政処分の対象とすべきである。
現状は、<刑事処分→行政処分→再教育>の順に再教育が位置付けられているが、再発防止の観点から早期に自律的な再教育を優先することが合理的である。なぜならば、刑事処分や行政処分が確定されるまでの期間も、その医療担当者は医療現場に残るからである。
原因分析調査委員会によって、医師個人の医療倫理的要因ないし医療技術的要因が死亡医療事故の原因となったと判定された場合には、地域ブロックにおいて定められた教育病院において、医師は教育を受けなければならない、という仕組みをつくるべきだろう。 ▲TOP
2)教育処分の決定
医療事故は、その責任をめぐって医療機関と事故に関与した医療担当者の利益相反を招くことがあるので、当該医療機関における医療従事者の処分は慎重でなくてはならない。医療機関が事故隠しのために医療担当者に退職を促すようなことは許されることではない。そこで医療事故に関わる、医師など医療担当者の処分は、地方医療安全委員会が原因分析調査委員の調査結果により、処分を決定するまでは行わない。医療機関が組織の責任を医療担当者個人に転嫁する意図で処分したことが明らかになった場合には、地方医療安全委員会は医療機関に対する処分において、その点を考慮に入れる。場合によっては、医療担当者個人の地位の保全等医療機関との間の調整を外部ADRを使用して図る。
一方、医療機関は、院内に教育責任者をおき、事故に関係した医療担当者の教育計画を立て、地方医療安全委員会に報告する制度を整備する。教育期間およびその内容は病院の自律的な判断に任せてよい。医療安全委員会の結論が出るまでに教育が終了することも差し支えないが、処分決定機関の判断によりさらに再教育を行うこともある。小規模診療所では、地域の教育病院を利用しての再教育となる。 ▲TOP
3)教育病院の設置と教育プログラム
全ての医療機関は、本来独自に再教育プログラムを整備しなければならないが、標準化およびコストの問題から現実的には不可能である。そこで、地域の中核病院を教育病院とするとともに、主要学会が協力して医師の職能集団を横断的に組織し、再教育プログラムの標準化を行うべきである。
再教育の費用に関して、厚労省再教育検討会では、再教育対象者本人の負担とするとする考え方が示されているが1)、再教育はあくまでも制裁的であってはならないので、再教育対象者に負担義務を課すことは望ましくない。専門職能団体は、自らの職能の質の管理を使命としており、医療機関および職能団体の拠出によって運営することが望ましい。
再教育プログラムの運営に関しては、職能集団が自主的に再教育プログラムを整備するべきである。
海外では、行政主導ではなく、職能集団が自主的に処分、再教育プログラムを整備しているケースがある。日本においても、医療安全委員会の創設とともに、刑事処分や行政処分に依存するのではなく、医師の職能集団が自律的に早期かつ弾力的に問題解決と再発防止に乗り出すことが重要である。
再教育プログラムの一つの案として、以下に記載する。
なお、今後、8章の事故の類型化と対策を参考にした再教育プログラムを構築していくべきであろう。
(1)倫理・コミュニケーション能力などの向上
患者クレームの件数と医療事故の発生には相関があるとの報告がある。医療者の態度やコミュニケーション技術は、しばしば看護師などコメディカルの医療事故を誘発し、医師自身の事故の要因となる2)。これらの態度を改善するため、病院受付やクレーム処理部門に従事し、紛争解決に参加するなどのプログラムが考えられる。民事上の責任が明白である場合には、遺族との直接対話を通して遺族の苦しみを理解させることも重要である。高齢者介護施設でのボランティア、看護補助業務のボランティアなどもよい教育場面になるだろう。また、過去の事例のロールプレイなども有効な再教育方法となる。
この再教育プログラムでは、患者の視点、チーム医療の重要性を学習させることを目標とする。
(2)知識不足や未熟な技術を補うための教育
過誤が発生した手技、判断などについて、文献の精読、指導医の監督下での研修を行う。
近年、侵襲的(特に合併症などにより結果的に身体に危害を加えうるおそれのある)行為に対し、院内基準を満たす医療者にのみ医療行為を許可するシステムをとる病院が増加している。技術の習熟には模型を使うなどのシミュレーションの方法もあるが、オンザジョブトレーニングが不可欠である。再教育においても指導医の権限により裁量を制限し、技術の習得を進めるオンザジョブトレーニングプログラムが必要である。たんなる知識習得ではなく、能動的に医療安全の手法を学ぶ手法が必要になる。また注意の喚起も、これを定型的に繰り返すと、注意喚起そのものが無意味化する。安全マニュアルを作るだけでは意識を変えることは難しい。
当該施設での研修が困難な場合には、特定機能病院や関連学会教育施設などで研修を行う。
(3)事故の原因が医療機関の安全対策そのものに起因していた場合
医療機関の管理者に対し、業務を制限した上で教育病院での研修に従事させる。学会、医療界は、常に標準的な医療の質を確保する役割を担うべきである。免許の更新制など卒後の医療者の質の評価、適切な医療水準を定義する努力が求められる。 ▲TOP
4)英米の再教育プログラム
医療事故後の再教育プログラムに限定すると、合衆国でも州レベルで9件、連邦レベルでのプログラムはさらに少ない2)。しかしながら、医師としてのスキルが十分でない、社会的な問題を生じた医師の再教育プログラムに広げると少なくとも全米46州で35以上のプログラムが実際に運用されている2、3)。これらのプログラムは、おもに州のメディカルボード(State
medical board)が経済的および実質的に運営している、その内容はシミュレーションによる症例検討、模擬実習などである2)。
一方、英国においては、医師免許管理組織であるGMC(General Medical Council)が医師に対する処分を行う。また、倫理上の深刻な問題や医師としての適格性に明らかな疑問のあるケースを除き、GMCが再教育プログラムを決定する役割を担う1)。
5)非死亡事故への適用
死亡医療事故の真相と原因の究明とそれに引き続く再発防止策の策定、あるいは、医師・医療機関の処分や教育・指導などは、事故が起こった後の事後対策に過ぎない。これはきわめて重要であるが、より充実した医療安全制度を構築するためには、非死亡例についても医療機関が自律的に安全対策を講じることが求められる。
本研究会のスキームでは地方医療安全委員会に報告を求められるのは原則として死亡事故事例に限定されるが、実際の医療事故には死亡には至らないものが圧倒的に多い。また、比較的軽微な事故であっても、同じ過誤を繰り返した場合にいずれ重大な事故につながる事例が含まれる。非死亡例であっても医療担当者個人の過失要因が大きい場合には、医療機関が医療担当者に対して自律的に教育と処分を行うことを制度化する。
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3-3 医療安全の評価と行政処分
1)医療機関の行政責任
医療システムをより安全なものにするという観点から、平成14年4月医療事故を未然に防止するための医療安全総合対策報告書5)がまとめられ、平成14年8月に医療法施行規則が一部改正され6)、医療機関(病院及び病床を有する診療所)の医療に係る安全管理のための体制を確保することが通知されている7)。(さらに特定機能病院では、整備すべき安全管理体制が上乗せされている8))。
繰り返し刑事事件となりながら再発防止ができていない事例としてカリウム製剤誤投与を後段(7-2参照)示すが、この場合には、むしろ刑事処分が、安全管理上の問題からかえって目を背けさせたと見るべきかもしれない。
平成15年11月、医療機関における医療事故防止対策の強化についてとして、特に具体的に医薬品名が挙げられ、医療機関では医薬品の過量投与や誤投与防止の方策を再確認する、あるいは講じることが通知され9)、平成16年6月には医療機関における医療事故防止対策の強化・徹底について、医薬品類似性ワーキンググループの検討結果を踏まえ、具体的な事例が挙げられ、注意喚起されている10)。これらの流れはいずれも、安全な医療システム構築を目的とするものである。カリウム製剤誤投与事例の場合にも、結果平成15年11月時点では、他の医薬品との供給方法の差別化を行うべきものとして挙げられた。安全管理対策を講ずるべきことが示された現在では、医療機関や管理者の責任が厳しく問われるべきものとなった。英国GMCの例を先にあげたが、こうした施策が、自動的に(システマティックに)遺漏なく遅滞なくできるように、事故の原因分析が医療安全施策、制度改善にむすびつく仕組みを構築しなければならない(6-2参照)。
平成16年9月には国立高度専門医療センター、大学病院や特定機能病院には、医療事故の発生予防・再発防止のために医療事故報告(財団法人日本医療機能評価機構に対する医療事故情報収集等事業)が義務づけられた。11, 12)こうした既存事業をどのように生かし、新たな機構との整合性をつくっていくか、国民の医療安全の向上という大きな理念を起点に、行政の既得権益や縄張り意識を排除し、独立した諸機関の相互評価と協力連携に努めるべきだろう。
既に、平成14年4月の医療安全総合対策報告書5)では、医療安全を確保するため地方自治体には国の基本的指針・基準等を踏まえ、地域における医療の実態を把握した上で、医療機関に対して指導監督等を行う必要があるとし、医療機関には管理者の強い指導力の下、適正な組織管理と体制整備を行い、組織を挙げて安全対策に取り組んでいくことが必要であると記されている。医療機関や管理者への指導等の必要性は、特に、平成11年の横浜市立大学病院患者誤認事故以降、こうした方針が確認されすでに社会的合意は得られている。実効性を担保するための法的整備を急ぐべきである。
医療安全対策のための医療事故の事実認定や事案の評価をしようとするならば、その医療機関や管理者の安全管理責任(組織責任、監督責任や管理責任)についても、原因究明機関すなわち地方医療安全委員会によって、評価がなされなければ意味がない。原因究明機関の仕事が診療関連死の原因究明や評価にとどまっていては、医療安全という本来業務の遂行は難しい。
初期段階では、医療安全委員会は、既に実施されている医療機関への地方自治体の担当部局の立入検査13)と連携するのが現実的ではないか。医療安全情報センターについても、関係を密ノすべきである。また、医療安全情報センターにおいて、事故情報が公表され、ある程度の時間も経過した時に同様の事故が生じた時には、医療機関や管理者が安全対策を講じていなかった可能性が高い。このような場合には、医療機関や管理者の責任は重いものである。 ▲TOP
2)地方厚生局医療安全調査官の役割
行政責任は、特別に重大な管理責任違反や安全義務の逸脱があった場合を除き、あくまでも医療界の自律的な改善努力をバックアップし、補完するために機能すべきものである。これまでの刑事責任の突出に、行政処分が取って代わるのであれば、事故を隠さずに根本原因を究明して、医療安全、再発防止の改善努力を評価する仕組みはつくれない。
平成18年6月の医師法改正により、行政処分にあたり関係者らからの意見聴取や病院への立ち入り調査権が認められるようになった(7条の3)。また処分内容も、医業停止と免許取り消しに戒告を加え、運用上5年を上限としてきた医業停止期間は3年以内と明記された。しかしながら、法改正により地方厚生局が調査権限を与えられたとはいえ、平成18年全国8箇所の地方厚生局に配属担当官は4人にすぎず、行政処分のために十分な調査が可能とは考えられない。そのため、今後は地方厚生局の調査担当官は、地方医療安全委員会と連携をもって、評価に基づく処分が自律的かつ適切に履行され、実効を挙げていることを調査し検討することになる。医業停止処分あるいは免許取り消しに相当すると考えられる場合には、地方医療安全委員会の判定を参考に、必要な調査を追加して国の行政処分機関に判断材料を提供する。
3)行政処分の在り方
医療事故における刑事事件では医師個人が被告人となるが、行政処分は現在のところ、刑事処分を後追いする形となっている。医療機関の組織的要因が大きく関与していると考えられた事例の大多数においても、医療機関に対する直接的な処分規定がないため、なんら処分を受けていない。医療事故の原因をたんに医師個人の責任に帰結させるこれまでの刑事裁判のあり方のみならず、医療機関に対する行政処分が不十分であったことが、有効な再発防止策を医療機関が行うことを阻害する要因となっていた可能性がある。
重大医療事故にあってさえも医療機関に対する行政処分が行われてこなかった理由として、医療法においては医療機関の処分は主に人員の配置や設備の不備に関して規定されているだけであること(医療法23条・24条)、健康保険法では保険医療機関等の処分は不正請求等の保険事業関係にほぼ限定されていること(健康保険法80条)が考えられる。
そこで、医療法や健康保険法上の医療機関に対する行政処分の対象を医療事故にまで拡大するべく改正することを提言する。しかし、医療事故の原因分析と再発防止に重点をおく観点からは、安全対策の不備として医療事故そのものに対して行政処分を行うよりも、医療事故発生時の対応の不備または欠陥に対して行政処分を行うことを基本とするべきである。すなわち、医療事故の発生した医療機関が積極的に医療安全委員会の調査に協力し、原因の調査を能動的かつ詳細に行い、有効な再発防止策を講じた場合には、行政処分は最小限度にする。一方で、病院長も関与するような組織的な隠蔽をはじめとする悪質な事例に対しては廃院や保険医療機関の取り消し等の厳罰で臨む。 ▲TOP
4)医療機関への行政処分の手法
医療事故に端を発した医療機関の行政処分例としては、東京女子医大事件、横浜市大事件、東京医大事件における特定機能病院の承認取り消しが挙げられる。例えば、東京女子医大の場合、特定機能病院であることによる診療報酬の加算がなくなったことで年間3億円以上の減収になったといわれており、保険診療上の処分は実効性をもった懲戒たりえる。
特定機能病院の取り消しは、当然のことながら特定機能病院以外の医療機関に対しては行うことはできない。一方で、一般医療機関に対する行政処分を保険医療機関の取り消しや停止といった医療機関全体の機能を停止してしまう処分に限定すると、処分が地域医療へ与える影響が過大になることが懸念され、処分の影響を考慮し過ぎた結果実質的に処分が行えないことにもなりかねない。そこで、医療機関に対する行政処分としては、医療機関の一部の機能を制限したり、診療報酬を減額したりする等の方法を主とするべきである。医療法上は改善命令、一部の業務停止(例えばある特定の手術の停止、透析等の治療処置の停止)から廃院まで、健康保険法上は医療安全対策加算や臨床研修病院入院診療加算の取り消し、診療報酬の減算等から保険医療機関の資格停止・取り消しまで、一定の段階があって弾力的に運用できる制度が望ましいと考える。医療法上および健康保険法上の行政処分を総体的に評価し、自由診療のみを行う医療機関と保険医療機関との間で不平等が生じないように配慮する必要もあるだろう。また、行政処分の実効性を確保するために、少なくとも当該医療機関が行政処分を受けている間はその医療機関の開設者が新たな医療機関を開設できない等の、開設者に対する処分も並行して行うべきである。
同一医療事故に関する個人と医療機関に対する行政処分は一体として検討することが望ましいため、次項で述べる「医療適正化審議会」において医療機関に対する行政処分も決定することとする。
5)医療保険のインセンティブを利用した医療安全の向上
医療保険制度は行政処分としてではなく、医療安全の向上にも用いることができよう。医療保険制度によって経済的インセンティブを与えることは、行政が医療機関の行動を誘導する有力なツールの一つであり、看護師の7対1配置による加算が導入された結果、全国で看護師の獲得競争が激化したことは記憶に新しい。
現在、医療安全に対する診療報酬上の裏付けとしては、「医療安全対策加算」が算定されている。これは、【1】医療安全対策に係る研修を受けた専従の薬剤師、看護師等が医療安全管理者として配置されていること、【2】施設内に医療安全対策部門を設置し組織的に医療安全対策を実施する体制が整備されていること、【3】施設内に患者相談窓口を設置していることを条件に、1入院あたり500円を加算するというものである。しかしこれでは、病床数300で平均在院日数が15日(1ヵ月の新入院患者数が600人)で計算すると月に30万円に過ぎないため、専従のコメディカルの給与も出ず、経済的なインセンティブとはなっていない。また、平成18年保険医療課長通知0306002で多少の解説はあるものの、加算の条件である「組織的に医療安全対策を実施する体制が整備されていること」というのもあまりにあいまいである。よって、より高度で具体的な安全対策を加算の条件として、医療安全対策加算を大幅に増額するべきである。加算を算定している施設において医療事故が発生した場合に、医療安全対策加算の施設基準が満たされていないことが判明した場合には、過去に遡って加算された診療報酬を返戻させる等の措置も行う。
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3-4 行政処分適正化のための改革
現在、医師の行政処分は、厚生労働大臣が医道審議会の諮問によって決定されている。この医道審議会を医療の安全性を維持・向上と患者保護を目的とする中立的機関医療適正化審議会に改組し、行政処分の目的を、医師のみならず医療提供体制の質の維持・向上に置くことを提案する。
医道審議会に代わる行政処分の審議機関として、投資家保護を主目的とする米国証券取引委員会(SEC)が参考になるであろう。それは医療者個人だけでなく医療機関も処分対象とする中立的機関でなければならない。
SECに相当するわが国の機関としては、1992年7月、金融庁の一機関として発足した証券取引等監視委員会があり、そのありかたは医道審改革の参考になろう。委員は衆参両院の同意で任命され、定員318人のスタッフを擁してインサイダー取引や株価操作などを調査。金融庁へ行政処分を勧告したり、悪質な事案は刑事告発もする。
委員構成については、ジャーナリスト1人を除き医師、大学教授中心である現状の医道審の顔ぶれを大幅に入れ変えることとする。イギリスの医事審議会(GMC)は委員35人中一般人14人であるが、医療適正化審議会の委員数を医道審と同数の11人だとした場合は一般人の数を2人以上とし、うち少なくとも1人は医療事故の被害者・家族ではない中立的な一般市民とすべきである。患者中心の医療は、保険料を納めている被保険者(患者予備軍)中心の医療でもあるからだ。またシステムエラー防止の面で専攻してきた製造業の危機管理専門家の参加を必須とする
また、現在、医道審議会は秘密会であり、処分される医師・歯科医師にも審議内容が開示されていない。処分を受けた者が求めた場合も、審議について一切明らかにされない。これは処分内容が、個人の権利を大きく制約するものだけに、早急に改め、処分の公正性と審議プロセスの透明性を守るため審議会は公開とするべきである。
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3-5 行政処分としての診療報酬制度の利用についての試案
医師・コメディカルスタッフおよび医療機関の自律的教育・処分の成果が充分な効果を伴っておらず、遺族の可罰感情が満たされない場合、前節(3-3)で述べたような行政処分を行うわけだが、特に医療保険の報酬を使った行政処分について試みの案を示しておきたい。
【埼玉医大総合医療センター抗がん剤過剰投与事件】(No. 43)
下顎部滑膜肉腫の患者に対して抗がん剤治療(VAC療法:ビンクリスチン・アクチノマイシンD・サイクロフォスファマイドの多剤併用化学療法)を施行した際、添付文書上も文献上も週1回投与であるべきビンクリスチンを7日間連続で投与して、患者が多臓器不全で死亡した事件である。卒後4年目の主治医が文献に記載されている抗がん剤の投与計画を誤解してビンクリスチンを処方した。指導医と教授はA文献の記載や処方箋の内容を吟味することなく治療計画を承認した。これに対し、主任看護師が主治医に対して処方内容についての疑問を申し出たが、主治医は無視した。薬剤部は病棟ごとに抗がん剤を含む薬剤を払い出す体制となっており、個別の患者に対する薬剤投与を確認できるシステムになっていなかった。
さらに診療チームは患者に重篤な副作用が出現した後も漫然と誤った抗がん剤治療を継続し、多臓器不全の徴候が出現するまで、内科などの他科専門医にコンサルトしなかった。抗がん剤の過剰投与が判明した後も主治医らは患者・その家族に事実を隠匿し、死亡時にも家族に虚偽の説明を行った。
死因に不審を抱いた家族が警察に通報した。診療を担当した教授、指導医、主治医が、刑事および行政処分を受けた。教授:禁錮1年・執行猶予3年、業務停止1年6月。指導医:禁錮1年6月・執行猶予3年、業務停止2年。主治医:禁錮2年・執行猶予3年、業務停止3年6月。
〈本件判決書から抽出される事件の問題点〉
【1】倫理的問題
・個人的要素(教授・指導医・主治医)
事故の隠蔽、虚偽の説明
抗がん剤の有する潜在的危険性を無視し、必要な情報の収集が不十分
重症化した患者の放置
看護師の疑問を無視
・組織的要素(病院)
事故の隠蔽
【2】医療技術的問題
・個人的要素(教授・指導医・主治医)
抗がん剤治療についての知識が乏しかった
患者の容体の変化への対応も遅く、拙劣であった
・組織的要素(病院)
抗がん剤投与を行う医師に対する教育体制の不備
研修中の医師に対する監督体制の不備
チーム医療体制の不備
抗がん剤投与の監査体制の不備。薬剤師による疑義照会がなかった
そもそも個別の患者に対する薬剤投与を薬剤部が認識していない
看護師が疑問を申し出たが無視された(医師の対応も良くないが、
看護師も専門職としての自負をもって疑問を提起しつづけるべきだった)
院内での連携の不備
患者の異常反応出現時の対応
患者の状態悪化時に、他科への診療依頼が遅い
以下、行政処分を含めて考察する。 ▲TOP
(1)個人に対する処分
主治医については、個人的過失と倫理的問題が大きいと考えられ、隠蔽工作がなかったとしても、遺族が110番通報しており、原因調査機関(地方医療安全委員会)の事故調査結果報告書が出た段階で、刑事捜査の対象となると考えられる。指導医と教授に関しては、一定期間の保険医資格停止が相当と考える。
(2)個人に対する再発防止策
三者ともに再教育の対象とする。医師免許ないし保険医の資格停止の解除のための条件として、一定期間抗がん剤治療について研修を行う。研修については、がん診療関係学会が提供する。また、倫理的教育も行う。
(3)医療機関に対する処分
組織的な隠蔽がなかったと仮定すれば、保険医療機関の資格停止ないし診療報酬の減額(例えばDPCの係数を一定期間20%減じるなど)が相当であろう。地域の中核病院であり、保険医療機関の資格停止による地域医療への影響を考えると、診療報酬の減額の方が現実的と思われる。もし、組織的な隠蔽に病院長までも関与していたような事実があれば、病院幹部の更迭とともに保険医療機関の取り消し等の厳罰を要する思われる。
実際の事件では、埼玉医科大学は事故調査委員会を組織して、事故の原因調査と再発防止策をまとめているが、病院は、何ら行政処分を受けていない。
(4)医療機関に対する再発防止策
【1】抗がん剤治療の処方箋を発行できる医師を制限する。例えば、各学会の指導医資格を有している、がん関連学会の認定医を持っている、院内の所定の研修を受けているなど。
【2】抗がん剤のレジメンは事前登録制として、コンピュータ管理とするか、処方箋にあらかじめ規定量を記載するなどして、誰が見ても過剰投与がわかるようなシステムとする。
【3】主治医だけでなく指導医も日々病棟の状況を把握することを義務づける
【4】患者の容体悪化に対する主治医の対応が不十分であるとコメディカルが判断した時に上級医に連絡するよう院内の診療内規を定める。
【5】薬剤部が全入院患者の処方箋を監査し、薬剤師法に規定されているように(第24条:薬剤師は、処方箋中に疑わしい点がある時は、その処方箋を交付した医師、歯科医師又は獣医師に問い合わせて、その疑わしい点を確かめた後でなければ、これによって調剤してはならない)、疑義照会を確実に行うようにする。
【6】看護師も医師の指示に疑義がある時にはその医師に照会することとし、もし十分な回答が得られない場合には上級医に報告する内規を設ける。 ▲TOP
(5)医療システムへのフィードバック
抗がん剤過剰投与にかかわる同様の事例は、刑事事件だけでも1999年の癌研究会付属病院事件(事件No.17)A2000年福井県立病院事件(事件No.69)等、複数発生している。先行する事件を教訓にわが国の医療界で再発防止策が共有されていれば、埼玉医大事件も発生しなかったかもしれない。その背景として、医療事故に関連して医療機関に対する行政処分がほとんど行われてこなかったという要因もあるものと推測する。大きく報道された本事件でさえ、わが国の学会誌等で検討した文献はほとんど見当たらず、わが国における医療のプロフェッショナルオートノミーのあり方が問われる事例であると言える。
「再発防止策」【1】と【2】は、全国の保険医療機関で実施するべきことであると思われる。これについては、特に医療機関の費用増加を招かないことから、抗がん剤費用を保険で支払う場合の条件として義務化する。実際、アメリカでおきた抗がん剤過剰投与事件(ダナファーバー事件;5章参照)を受けて、J
Clin Oncol 14:3148-3155, 1996に掲載された再発防止策に関する論文をわが国で共有できていれば、先行事例においても事故を防止できた可能性がある。
【1】「医療機関に対する再発防止策」【5】も、各保険医療機関で実施するべきことではあるが、全病棟に薬剤師を常駐させると人件費支出が増大する。よって、病棟薬剤師を常駐させて全入院患者の投薬内容を適正に管理している病院については、診療報酬を加算することは考慮に値しよう。
【2】「医療機関に対する再発防止策」【6】も全国的に行われるべきであるが、現在の保健師助産師看護師法では、医師への疑義照会を義務づける規定がない。これがチーム医療推進や看護師の専門職としての地位向上の妨げとなっている可能性がある。保健師助産師看護師法に疑義照会規定を設けるべきである。
参考文献
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Dyscompetent Physicians. J Contin Educ Health Prof 2006; 26(3); 17391
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5)医療安全総合対策報告書, 医療安全対策検討会議, 平成14年4月17日付(http://www.mhlw.go.jp/topics/2001/0110/tp1030-1y.html)
6)「医療法施行規則の一部を改正する省令」(平成14年8月30日付, 厚生労働省令第111号)
7)各都道府県知事宛厚生労働省医政局長通知「医療法施行規則の一部を改正する省令の一部の施行について」(平成14年8月30日付, 医政発第0830001号)
8)各都道府県知事宛厚生労働省医政局長通知「医療法施行規則の一部を改正する省令の一部の施行について(特定機能病院における安全管理のための体制の確保)」(平成14年10月7日付,
医政発第1007003号)
9)各都道府県知事・各政令市市長・各特別区区長宛厚生労働省医政局長・厚生労働省医薬食品局長通知「医療機関における医療事故防止対策の強化について」(平成15年11月27日付,
医政発第1127004号, 薬食発第1127001号)
10)各都道府県知事・各政令市市長・各特別区区長宛厚生労働省医政局長・厚生労働省医薬食品局長通知「医療機関における医療事故防止対策の強化・徹底について」(平成16年6月2日付,
医政発第0602012号, 薬食発第0602007号)
11)「医療法施行規則の一部を改正する省令」(平成16年9月21日付, 厚生労働省令第133号)
12)各都道府県知事・各政令市市長・各特別区区長宛厚生労働省医政局長通知「医療法施行規則の一部を改正する省令の一部の施行について」(平成16年9月21日付,
医政発第0921001号)
13)各都道府県知事・各政令市市長・各特別区区長宛厚生労働省医政局長通知「平成17年度の医療法第25条第1項の規定に基づく立入検査の実施について」(平成17年6月21日付,
医政発第0621004号)
14)Hickson GB, Federspiel CF, et al.: Patient Complaints and malpractice
risk. JAMA 2002; 287; 2951-7
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